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ひでざんまい すしを
@nakanishisama
⇒そんな二人に治五郎は「黎明の鐘」になれと熱弁。その頃、若き日の志ん生である孝蔵(森山未來)も師匠・橘家円喬(松尾スズキ)に落語は足で覚えるものだと教わり東京の中心・日本橋界隈(わい)をひた走る。 #いだてん
成@LET IT DIEプレイ中
@nanaru66
お、ここで昭和35年に戻りました。
1960年か。
明治45年も。
うわー、車引く人間がその当時を思い出せと。
な、なるほど!
日本橋から芝まで走るの流行りそうだなー(笑)
#いだてん
#いだてん東京オリムピック噺
#NHK
一二三
@nunonofuku123
現在の日本橋は1911明治44年4月9日完成で、オリンピック予選が11月19日なので完成して半年ちょっと程度。横浜赤レンガ倉庫作った建築家で官僚の妻木頼黄らによって作られた都電が橋の上を走る巨大な話。橋の揮毫は徳川慶喜によって書かれた。#いだてん
ヴォルケン
@volken_knight
今走っているところはあまりよくない。地形的にそういうこと。どうせなら本番に近い道を走ったらいいんじゃないか。石畳は日本橋。水の都は芝。ルートは大体決まった?しかし恐ろしい距離だ。孝蔵も走っています。走りながら噺の稽古。やってみたが反応は微妙 #いだてん
ひでざんまい すしを
@nakanishisama
2.10 #いだてん
(6)「お江戸日本橋」
予選会での四三(中村勘九郎)と弥彦(生田斗真)の快走に喜ぶ治五郎(役所広司)だったがオリンピックへの派遣費用が莫大で頭を抱える。さらに四三は負ければ腹切りかと恐縮し、弥彦は帝大後の進路を考えたいと出場を断る。⇒
一二三
@nunonofuku123
現在の日本橋は、出来た当時はレンガ作りと石作り併用で、麒麟にない翼を敢えてつけた麒麟像など和洋折衷のデザインが業界で批判された。清水組(現清水建設)技師長だった田邊淳吉は日本橋を「意匠設計の上に何の連絡も統一もない。根本的に失敗してる。」とこき下ろす。#いだてん
ヴォルケン
@volken_knight
満州で富久をやった覚えないしそもそも五りんの父親に会った記憶もない。富久を志ん生は勝手にアレンジしているという話になる。そんな距離を走る奴はいないだろうという話になるがどうも走っている奴はいる。本当にいたんですが。それこそ毎日。そして日本橋にて二人はすれ違うのだった #いだてん
マルマルコ
@marukodorama
孝蔵の事をちゃんと美濃部くんと呼ぶ円喬。
「富久」は主人公が浅草から日本橋や深川を往来しつつ話が進んでいく。実際に車を走らせながら自分の話を聞く中で、ただ話を丸覚えにするのではなく走るという実体験を通して自分のものにする…という円喬の教えに幸蔵への師弟愛を感じる。
#いだてん
かかまつ
@kakamatsukk
大河だ。誰が何と言おうとこれは大河ドラマだ。
若者が一途に先を見る様が、見る私達をワクワクさせる。
互いが誰であるかも知らぬまま、何を目指すかも知らぬまま、浅草から日本橋、芝。芝から日本橋、浅草。小さな夢を見つけた若者が、心の中で大きな花火を上げながら駆け抜けていく。
#いだてん
かかまつ
@kakamatsukk
富久では、旦那の家の火事の報に浅草から日本橋まで駆けつけることで、再び出入りを許される。その距離を足で覚える美濃部。一方四三は、本番対策として浅草から日本橋の道を提案される。若い二人の交錯。
志ん生が日本橋を芝まで延ばして演じたこともさらりと拾うのが落語好きには嬉しい。
#いだてん